サイレント・コミュニケーションとは?

盲導犬

私たちのまわりには、多くの動物がいます。

ペットとして飼われている犬や猫もいるでしょうし、木々や庭先にいる小鳥、そしてゴミ置き場近くにいるカラス、さらには、駅のプラットフォームにいるハトなどもそうです。

彼らは、人間のように話すことはできませんが、彼らの持つ鳴き声や行動で、仲間とコミュニケーションをしています。

先日、いつものように電車に乗ると、一匹の盲導犬が電車の入り口にいました。

盲導犬のご主人は初老の女性の方のようでした。

電車の扉が閉まり動き出すと、盲導犬は、主人の傍らの床に小さく身を縮めて伏せの姿勢をとり、その尻尾はまわりの人の邪魔にならないように、自分の体のまわりにぴたっとつけて待機していました。

目的の駅に着くと、すでに理解しているようにすっくと立ち上がり、主人を連れて電車のドアから出ていきました。

私たちがペットとして飼っている動物も、口では話しませんが、態度や鳴き声で何かのコミュニケーションをとろうとします。

同じように、ベビーカーに乗せられて電車に入ってくる赤ちゃんがいます。

多くのまわりの人が赤ちゃんとみると、赤ちゃんもじっと見返して、いろんな表情を見せてくれます。

本来、私達人間も、原始的な生活を送っていた時代には、じっと相手をみたり、大きなジェスチャーをすることで、喜怒哀楽を表現していたのかもしれません。

いつの頃からか、言葉で支配される時代になり、言葉以外のコミュニケーションの方法を忘れてきているのが、私達人類なのかもしれません。

サイレント・コミュニケーションは、人間とペットの間だけでなく、人間どうしの間にも存在します。

相手をじっと見つめて、相手が望んでいることに思いを馳せることが、サイレント・コミュニケーションのはじまりです。

話す前に、話しながら、話し終わる時、聞く前に、聞きながら、聞き終わる時、そういう一瞬一瞬に、私たちは無意識のうちにサイレント・コミュニケーションを使っているように思います。

 

ヒューマン話し方教室 スタッフより

「アルジャーノンに花束を」を読んだことがありますか?

アルジャーノンに花束を

「アルジャーノンに花束を」という作品は、ダニエル・キイスによって書かれた作品で、今から49年も前の1966年に刊行された作品です。

日本語訳は、1978年に小尾芙佐(おびふさ)さんにより翻訳が行われており、その題名は誰もが一度は聞いたことがあると思います。

私も、本の題名だけは昔から知っていましたが、このたび初めて読む機会を得ました。

著者のダニエル・キイスさんは、昨年の2015年6月に86歳で他界されたそうですが、そのこともあってか、2015年4月からの金曜ドラマで山下智久さん主演で、この「アルジャーノンに花束を」の作品がドラマ化されたそうです。

番組のサイトはこちら
http://www.tbs.co.jp/algernon2015/

私はドラマの方は見ていませんが、書店で本を購入して、一気に読んでしまいました。

恐らく、この本はこれまで読んだどの本とも違い、読者の脳そのものに対しても、何等かの変化を及ぼすような影響を持っているように思いました。

ある意味で、一気に読まざるを得ないという緊迫感が伝わってきて、電車の中で読んでいたら、降りるべき駅を通り過ぎてしまったこともありました。

お話は、読んでからのお楽しみですが、本の裏にある簡単なあらすじだけをご紹介します。

「32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリー・ゴードン。
そんな彼に夢のような話が舞い込んだ。大学の先生が頭をよくしてくれるというのだ。
これにとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に検査を受ける。
やがて手術によりチャーリーの知能は向上していく・・・
天才に変貌した青年が愛や憎しみ、喜びや孤独を通して知る人の心の真実とは?
全世界が涙した不朽の名作。」

私が小学校の頃だったと思いますが、頭のよさを測るということでIQテストというものを受けさせられたことがありました。今考えると、どうしてそういうテストがあったのかは不思議なのですが、いつの時代においても、テストというもので、人を差別化する教育が行われてきたように思います。

しかし、一方で愛情や思いやりや友情や謙虚さといった人間の能力については、未だに目にみえる形であらわすことはできません。また、生まれつきの知能や障害といったものに対しての理解不足や、そのことによる差別という問題についても、未だに解決されていないように思います。

本書は、このような人間社会の持つ根元的な問題について真正面からとりくんだ画期的な小説であるように思いました。ぜひ、みなさんも読んでいただきたい一冊です。

ヒューマン話し方教室 スタッフより

意識することで誠意が伝わる話し方になる

電話でも、メールでも、直接の会話においても、相手に対して誠意を持って話す(書く)ことで、コミュニケーションは格段にレベルアップします。

私も日頃から多くの方とお話しをする機会が多いのですが、仕事ができる人であっても、人間どうしのコミュニケーションが出来ていない方が多いように感じます。

決してノウハウ的なものではなく、コミュニケーションをとるためには、相手と完全に向き合うという心構えが一番必要です。

自分が逃げ腰だったり、相手の話しをきちんと聞いていなかったり、自分には関係ないというふりをしたりすることは、話している相手に対しても失礼ですし、何よりも自分中心主義だと見られてしまいます。

話しというものは、自分と相手の間のちょうど中間付近に浮かんでいて、それを両者がいろんな角度から具体的なものにしていくという作業だと思うのです。

相手から出てきた話しの種を、きちんと理解して具体的なものにしていく作業が、誠意のある話し方になります。

相手の話しの種を無視したり、違う話しの種に置き換えたりすることは、相手に対して失礼なことだと認識する必要があります。

逆に、自分が話す場合においても、相手がキャッチできる話しなのかどうか、話しの流れの中で自然な話しなのかどうか、など相手が考えていることも想定して内容や、話し方を変えていく必要があります。

一番悪い例としては、感情的になって言葉より感情が勝ってしまうことです。

早口になったり、売り言葉に買い言葉のような状態になってしまうと、信頼関係は一気に崩れ、コミュニケーションどころではなくなります。

このようなことにならないために、日頃から会話において大切にしておきたいことがあります。

1.相手が話している時、相手の目を見ること。

2.相手の話しの意図について、確認しながら会話を進めること。

3.間を置きながら、急がずに話すこと。

4.自分に関係ないと思った話しであっても、相手の立場になって聞くこと。

私も、コミュニケーションに関しては、これまで数々の失敗をしてきましたが、その失敗の多くは急ぎすぎて言葉を発している時に起こっているようです。

そういう反省もこめて、今回はこういう記事を書いてみました。

皆さんも、自分の日頃の会話を思い出して、きちんとコミュニケーションができているかをチェックしてみてください。

ヒューマン話し方教室 スタッフより

「舟を編む」(三浦しをん)を読む

舟を編む 三浦しをん

2012年の本屋大賞第1位となった三浦しをんさんの「舟を編む」の文庫版を読みました。

これまで私が読んできた小説とは一風変わった小説で、これは実話なのかもしれないと思ってしまうような小説でした。

一冊の本を作ることも大変なことですが、「大辞典」という巨大な言葉の編纂事業に携わる人々の大変さがよく伝わってきました。

出版社の社員となったちょっと変わった青年が辞書作成に苦労している姿と、日本語を究極まで突き詰めていく妥協のない姿は、今現在出版社で働いている人々の本当の姿を映し出しているんだろうなと感じました。

何気なく言葉を使っている私たちには、想像もできない世界ですが、日本語の持つ複雑さと、言葉の大切さを感じさせてくれる本だと思います。

この本の中の一節に、長年辞書作成に関わってきたご高齢の松本先生の象徴的な言葉があります。

「言葉は、言葉を生みだす心は、権威や権力とはまったく無縁な、自由なものなのです。また、そうであらねばならない。自由な航海をするすべてのひとのために編まれた舟。「大渡海」がそういう辞書になるよう、ひきつづき気を引き締めてやっていきましょう」

日本では、辞書の編纂ということが国家ではなく、民間で行われているそうです。そういう意味で、言葉が自由であり、歴史の中で使われてきた言葉が長らく残っているのかもしれません。

私も年をとるにつれて、日本語の大切さを感じると共に、自分が正しい日本語を知らないということを恥ずかしく思うようになりました。

昔の人は、漢文やら漢詩やらをすらすらと言える人も多かったようですが、今ではそのようなことを全く知らない世代がほとんどです。

そのような中で、辞書を編む人々が黙々と言葉と格闘して、数十年の月日を経ながら一つの辞書を作っているかと思うと、頭が下がる思いです。

興味のある方は、是非ご一読ください。

ヒューマン話し方教室 スタッフより

なぜ継続できない人が多いのか?

仕事とは別に、空いた時間で自分のスキルを磨きたいという人も多いと思います。

最初は、「さあ頑張るぞ~」と意気揚々と初めてみたものの、2,3回くらいでその気力が減退して、いつの間にか自然消滅してしまう・・・というようなことってありませんか?

決して、あなただけではなくて、ほとんどの人がそのようなことを体験していると思います。

私たちの心というものは、とても流動的で勝手で、節操がなくて怠惰なものだということを知ることが大切です。

そういう信用のならない自分の心をどのようにコントロールして、初心を忘れず継続させることができるのでしょうか?

この場合、コントロールしているのも自分ですから、心の審判がこれくらいだったらいいかと甘いことをささやいて、結局は元の木阿弥ということになってしまいます。

つまり、自分でコントロールするということは、よほど強い意志を持っていないとできないわけです。

逆に言うと、「自分でコントロールできる」なんてことは土台無理なことだということなのです。

そこで、どうするかというと、まわりの人に向かって自分の継続することを「宣言」し、それを記録として残し、証拠として消えない状態にしてしまえばいいのです。

これを「有言実行」といいますが、さらに進めて「公言公開実行」というくらいまで高めておく必要があります。

自分の習慣や考え方を大きく改革していくためには、これくらいの思い切った決断が必要なのです。

この思い切った命がけの決断のことを、「決心」といいます。

人は、「決心」ができれば、必ずそれを守ることが必要になり、まわりから見られているということもあって、継続することが義務化してきます。

最初は義務だと思っているので、とてもつらい時期がありますが、ある時期を過ぎるとそれをすることが「あたりまえ」と捉えるようになってきます。

大人になると、自分で何でも決められるようになりますが、逆に言えば自分を怠惰な方向に向かわせることになります。

そういう怠惰な自分と決別して、新しい自分に変わるための「決心」をすることが、今の私たちに必要なことだと思うのです。

ヒューマン話し方教室 スタッフより