気が付くと、相手の土俵にいる

話し方教室の社長さんの「捨田利先生」と初めて出会ったのは、今から8年前くらいだったと思います。

私としては、「話し方」を「教室」としてやっているところがある、ということを初めて知った瞬間であり、一体、その社長さんという方はどのような方なんだろうと思いました。

お会いした最初の印象は、小柄ながらも、とても姿勢のいい方だなあという印象でした。当時は75歳くらいの年齢だったようですが、全く歳を感じさせないほど、シャキッとした姿で、張りのある話し方をしていました。

私も「話し方教室」のホームページのイメージが全く想像できなかったので、一度レッスンの風景を見せていただくことにしました。

そこには、多くの社会人が「話し方教室」でコミュニケーションや、スピーチのトレーニングをしている姿がありました。そして「捨田利先生」が多くの生徒さんから信頼されていることを感じました。

捨田利先生は、独自のトレーニングプログラムを開発してきた方なのですが、社長でありながら、日々第一線で話し方トレーナーとして、現場で活躍されていました。

ホームページを担当させていただくようになって、捨田利先生とはいろんな話をさせていただきました。私とは当然ビジネス的な話が多かったのですが、そんな中でも不思議だったのは、いつの間にか捨田利先生の話の土俵に上がって話をさせられているという感覚です。

本来、ホームページ制作というのは、クライアントの要望を聞いて、原稿どうりにホームページを作ったり、デザインをしていくのですが、捨田利先生の場合は、ちょっと違いました。

必ず具体的なイメージや文字を手書きで書いてきて、それを私に見せながら、「この言葉で伝わりますかね~。もっといい言葉はありますか?」などと、私に意見を求めてくるのです。

言葉を決めるために、数時間いっしょに議論するようなこともあり、ホームページを作っているのか、それとも「話し方教室」のスタッフになっているのか、わからなくなることもありました。

また、画像を選ぶときも、「こんな画像はありませんか?」とイメージの内容まで細かく希望を出してくるのです。その期待に応えようといろいろと試作するのですが、色合いや構図みたいな部分まで細かく指示され、何度も作り直すことがありました。

ふっと思いつくみたいで、FAXでイメージを送ったからと電話がかかり、その通りに作ると、次は、別の案がFAXで送られてくるというようなことが何度かありました。

そうこうしているうちに、捨田利先生が何を望んでいるのか、どういうページにしたいのか、ということが私の方でもだんだんわかってくるようになりました。

しかし、不思議だったのは、新しい提案はどんどん送られてくるのに、過去に掲載した内容については、あまり興味を持っていないようでした。

新しいことにいつもチャレンジする人の頭の中は、過去の方向にベクトルが向くということがないんだなあと、そのとき感じました。

捨田利先生は、「考えるよりも行動」という人でした。

「毎日、何時に起きるのですか?」と尋ねると、「4時には起きて、散歩している」という答えが返ってきました。

「電車に乗っていて退屈しないですか?」と尋ねると、「電車に乗っていると次から次に発想が出てきていいんだよ。」と言われました。

80歳が近い歳になっても、全く「老化」を感じさせない雰囲気を持っていて、この人は一体どういう人なんだろうと不思議に思いました。

電話に出ると、「今日は、どの時間か、空いている時間がありますか?」といわれ、こちらの都合のいい時間を言うと、電車で1時間ほどかかる距離であっても、「それじゃ、その時間にお伺いします」と言って、きっちりその時間に来るのです。

「今日は、新潟から来ました」とか、「明日は北海道に行く予定があるので」とか、どう考えても80歳近い人の行動ではないのです。

そういう捨田利先生と接する中で、「この人は他の人と違って特別な人だから」と考えるようになり、無理なことを言われても、平気で「わかりました」というようになりました。

そのころ、私の事務所では、捨田利先生のことを「しゃたりん」と呼ぶようになりました。

「今日、しゃたりんから電話あったよ」と事務所のスタッフどうしで会話していました。

捨田利先生は、「話していると」というより「付き合っていると」、いつの間にか、先生の土俵に自分から上がって、前向きに考えさせられているという存在だったように思います。

おそらく、そういうことが捨田利先生が「話しのプロ」と呼ばれていた所以ではないかと、今になって思います。

次回の記事は、捨田利先生の交渉術について書いてみたいと思います。

ヒューマン話し方教室 スタッフより

不思議な人は魅力的な人

あなたは、今までの人生の中で、不思議な人に出会ったことがあるでしょうか?

私たちが、不思議な人と思うのは、魔法使いではなく、常識にとらわれない考え方を持っているような人だと思うのです。

自分の常識と全然違う!と思ったときに、私たちの心や脳はびっくりしてしまいます。

「どういう考え方をすれば、そういう風になるの?」

という感じです。

不思議な人

たとえば、それは容姿という点も一つの候補です。

思い切ったファッションができる人、派手なファッションができる人、絶対にありえないファッションができる人、そういう人も衝撃的です。

でも、本当にびっくりするのは容姿ではなく、その人の考え方や、人との接し方という点で常識を超えた部分を持っている人がいます。

そういう人の中には、まわりに迷惑をかけてしまうような人もいるかと思いますが、よくよく後になって考えてみると、そういう人がいることで、私たちの常識を打ち破って、新しい世界に誘ってくれたのではないかと思えるようになるのです。

一方で、あなたはそういう常識のない生き方は到底できないと考えていると思います。

年相応、職業に相応、これまでの経歴に相応した生き方という枠の中で生きていると思うのです。ところが、年を経るにしたがい、その枠はどんどんと小さなものになってくることもあって、いつの間にか自分はこれでいいのかと自問するような時期がきます。

そういう時に、常識にとらわれない種族の人と出会ったらどうでしょう。それは、とてつもなく魅力的な出会いになると思います。

私は現在ホームページの仕事に携わっていますが、今から8年前、ある話し方教室のWebページを頼まれました。この時、その話し方教室の社長をしていた人が、私にとっての「不思議な人」になりました。

その人は、皆から「捨田利先生」と呼ばれている社長さんでした。(次回に続く)

ヒューマン話し方教室 スタッフより

笑顔をつくるとやさしくなれる

笑顔と話し方

接客業のお仕事をされている方は、日々意識していることですが、お客様に対して笑顔で応対することはとても大切なことです。

しかし、忙しくて余裕がなかったり、自分の中でいやなことがあったときには、笑顔をつくることは簡単ではありません。

お店に行って、マニュアルどおりの笑顔や丁寧な話し方をされると、うれしい反面、本当にこの人は心で思っていることを話しているのだろうか?と思うこともあります。

日本では、諸外国と異なり、サービスマナーが徹底されており、お客としてお店に入ったときに不快になるということはありません。しかし、あまりにも形式的な言い方をされると、単に商売としてやっているだけではないかと勘繰りたくもなります。

心のこもっている言葉なのか、それとも心がこもっていない言葉なのか、という判別で一番大切なことはなんでしょうか?

それは、相手の目をしっかりと見て、言葉を発しているかどうかでわかります。

日本人は、相手の目を見るということを短時間しかできない民族だと思います。一方、外国の多くの人々は、日本人みたいに笑顔は少ないものの、じっと目を見て話すということを子供の頃から訓練されているように思います。

電車の中で、赤ちゃんや子供を見ていたら、相手もじっと見返してくるという経験をしたことがないでしょうか。子供のときは、必ず相手の顔をじっと見て話すことがあたりまえなのです。

ところが、大人になるにつれて、相手の顔や目を見ないで話すという習慣が次第についてきます。これは家族の中でもそのようになってくる傾向があります。

人の目と目が合ったときに、本当の会話が生まれます。

目があった瞬間にあえて笑顔をつくってみましょう。それが全くの他人であってもです。

そうすると、相手の顔がゆるんで、相手も笑顔になってくれます。

それが、私たち動物の本能的行動だからです。

ヒューマン話し方教室 スタッフより

いい会議にする秘訣とは何か?

「朝まで生テレビ」というテレビ朝日の番組を見たことがあるでしょうか?

最近は、司会の田原総一朗さんの体調を考慮してか、頻繁に開催されることはなくなったように思いますが、昔は毎週やっていた時期もありました。

朝まで生テレビは、意見が全く違う論客や政治家を集めて議論する番組なのですが、見ている人はその激しいやり取りや、話し手の個性の強さに戸惑うばかりです。

私が最も気になるのは、人の話を押しのけてまで自分の話の正当性を主張するという姿です。

普通の会社の会議などではこのような激しいやりとりはないと思いますが、敵対するような人が自分の主張を曲げないだけの会議であれば、あまりやる意味はないように思います。

ここで重要になるのが司会の役割です。司会者は出演者に多様な意見を言わせるだけでなく、問題点を探って解決の糸口は何かというところまで切り込んでいく必要があります。

つまり、司会者は中立性を守って、どういう順番で発言を引き出していくか、どうやって議論が深まる方向に持っていくか、ということを考えて会議を進めていく必要があります。

私たちが会議に参加する場合、主催者側にまわるのか、オブザーバー側にまわるのかによって、発言の内容は変わってきます。

また、決まっていることを確認する会議なのか、それとも議論して何かを決めることが必要な会議なのかによっても、発言の内容は変わってきます。

会議での発言で大切なことは、長々と話さないということです。長々と話すと、重要なポイントが見えなくなると共に、他の人の話す機会を奪ってしまうということになります。

その意味で、会議での話し方は、自分の思っていることを誤解のないように簡潔に伝えるということが必要です。また、全体の話の流れに目を向けて、話を脱線させないことも大切です。そのためには、全部を話そうとするのではなく、まわりの人が知りたいポイントに絞って結論と理由を述べていくのがいいと思います。

一方、司会者は、発言の内容をまとめながら、次の発言者へつなぎながら、限られた時間の中で議題を進めていく必要があります。

私も昔は、会社での「何も決まらない会議」を多く経験してきました。このような会議の特徴は、会議の目的がはっきりしていないまま、ただ形式的に集まって話しているだけということです。決まるのは次の会議の予定だけ、という悲しい会議です。

個人的にいつも感じているのは、会議に至るまでの参加者どうしのコミュニケーションや、グループ内で同じ目標を目指しているという気持ちがなければ、その会議には成果が生まれにくいのではないかということです。

また、会議での発言内容を制限したり、始めから結論ありきの会議は、やる意味はありません。このような会議は時間の無駄であり、生産的ではないと思います。

人と人とが話すのは単に会話ですが、会議は複数の人が全体で話しているという形です。また、会議に参加している人は皆平等に発言できる権利を持っています。いろんな考え方を受け入れながら、問題点や疑問点をクリアにして、目的に対してよりよい結論を導くという形になるよう、参加者全員の意識を1つの土台に載せていくという作業です。

「会議では議題を始める前に、その会議を行う意味をきちんと参加者に伝えること」

そういう会議を目指していければと、私も思います。

子供の英語教育と大人の英語教育

かなり昔から「議論」という形で専門家の間で意見が対立している。

「英語教育を幼少期に始めるべきか」という議論だ。

幼少期こそ、正しい日本語を身に着けることが必要であり、その時期に英語を勉強すると、日本語が正しく身につかなくなり、ひいてはその他の科目にも影響がある。さらに、情報機器の普及によって漢字が書けないなどの弊害も生まれており、子供の時期にしっかりした国語力を身に着けることが大切だ。と反対派は言う。

一方、賛成派は、幼少期から英語を学べば、将来にわたって英語の発音が正しく聞こえたり、話せたりするようになり、その後の英語の習得にかなり有利になると共に、英語の文法力よりも会話力に重点を置いた学習形態に変化させていくことで、グローバル社会で必要とされるより多くの人材の育成が可能になる。と言っている。

このような議論とは別に、世間の親はわが子に英語教育が受けられる小学校に入れようと躍起になっているという話も聞く。

大人になってから思うのは、「英語が話せないのは学校教育のせいだ」と言いたいのだろうが、同じような教育を受けても、話せる人と話せない人がいるということは、一概に学校教育のせいとは言えない面もあると思う。

最近あるYoutubeの動画を見て、衝撃を受けた動画がある。 それは、以前に書いた記事で紹介したが、赤ちゃんが6ヶ月から1歳の間に聞いた音で、音を聞き分ける脳が作られていて、その後は歳をとるにつれ音を聞き分ける能力が退化していくという話である。

さらに、その音というのは、人間が直接赤ちゃんに対して語りかけるという形でしか有効ではないということらしい。 幼児期に親が話しかけるということが、その子の言語能力を最も高めているということをこのことは示していて、おそらく、その後の複雑な言語の習得にも大きな影響を与えているように思われる。

最近は、電車の中で、子供が泣いているのに、無視してスマホをいじっている親を見かけることもあり、そういう親が子供の脳に影響を与えていると思うと、この国の将来に一抹の不安を感じてしまう。

私たち大人は、子供たちの可能性を広げるためと、良識のある大人になってもらうために学校教育をよりよいものにしてもらいたいと願っているが、時代時代で変わってゆく勝手な大人たちの思惑で、団塊世代、バブル世代、氷河期世代、ゆとり世代、さとり世代と呼ばれる世代が生まれたりしていることを考えると、学校教育は固定的なものでなくて、時代に対応して変化してきたものらしい。

しかし、どのような教育を受けるにしても個人差はあり、何かが得意であれば、何かが不得手であるという千差万別の個性というものは変えがたいところのようだ。 幼児期から小学生に至るまでの英語教育のあり方のみならず、今を生きる私たち大人の英語教育のあり方も同時に考える時期に来ているのではないだろうか?

ヒューマン話し方教室 スタッフより