私たち日本人のアイデンティティとは何なのか?

私たちのアイデンティティとは何なのでしょうか?
日本人として生まれ、日本語を話し、日本という国に住んで、何のために生きているのでしょうか?

仕事で忙しい人は、自分のアイデンティティに対して、悩む時間はありません。
むしろ、自分のアイデンティティを考えると今の生き方に不安を持つかもしれません。

一方、仕事を失ったときには、自分のアイデンティティについて深く考える時間を持つことができます。
しかし、そんなことを考えるより、再び仕事に就いて、そういうことに悩まない生活をしたいと考えます。

実のところ、人はそれほど強くないために、自分のアイデンティティに正面から立ち向かうということを避けたり、ごまかしたりして生きているのかもしれません。

昨日のニュースで、7月7日に永 六輔さんが亡くなられたことを知りました。
永さんは、昭和一桁世代として、戦争を経験して、そのことを多くの人に伝えなければという思いで晩年を生きていたようです。

戦争が終わった翌年の1946年の4月に、雑誌「新潮」から坂口安吾氏の「堕落論」が発表されます。
戦争の混乱の中で、出されたこの衝撃的な文章は、当時の日本人のアイデンティティに大きな影響を与えたものとして有名です。

先日、この「堕落論」に触れる機会があり、読んでみたのですが、とても興味深い文面でした。
かなり難しい文章ですが、興味のある方は、読んでみてください。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

私なりにこの文章を解釈することは、かなり難しいことなのですが、最後の文章の中の

「人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」

という言葉が印象的でした。

坂口安吾の「堕ちる」という言葉は、「堕落する」という意味ではなく「公の考え方(常識)に頼ることを拒否して、素の自分を見つめ続けること」に相当するのではないかと思われます。

戦後の混乱の時代に、アイデンティティをなくし彷徨う日本人に、堕ちるところまで、しっかりと堕ちて、自分を見つめなおすことが大切だと問いかけたのではないかと思います。

私自身も、この文章に触れて、時代に左右されず、常識に左右されず、肩書きに左右させず、自分自身の心のあり方をしっかりと見つめることが、アイデンティティを考えることなのだと気づかされました。

ヒューマン話し方教室 スタッフより