皆さんは、「杉原千畝」の映画をご覧になりましたか?
私は、最初に本を読んで、この映画をぜひとも見たいと思い、映画館に足を運びました。
杉原千畝(すぎはら ちうね)は、1900年に岐阜に生まれました。
旧満州の日ロ協会学校(後のハルピン学院)でロシア語を学び、生涯ロシアに行くことを夢見た人だったようです。
しかし、外務省に入ってからはロシア語ができることで、逆にロシアの動向を探る諜報活動を任され、満州鉄道の利権をロシアと争う交渉においては、ロシアに不利になるような情報を集め、結果的に満州鉄道の利権をロシアから奪い取ることになります。
この一件で彼は、日本では功名を得ますが、逆にロシアからは「ペルソナ・ノン・グラータ(好まざる人)」と呼ばれるようになり、その後のロシア大使館への赴任はかなわぬことになってしまいます。
日本に帰ってきた千畝は、満州鉄道の利権を取る作戦の中で、諜報活動をともに行った外国人の仲間たちを日本の軍隊である関東軍に殺され、そのことでかなり傷ついていたようです。
そんな中で友人の菊池の妹の幸子に出会い、結婚することとなります。
そして結婚後、外交官として赴任したのが、ヨーロッパの小国リトアニアです。
リトアニアはドイツとロシアの間に挟まれ、ロシアへの諜報活動をするには適した場所と考えられたからです。
1937年からフィンランドに赴任し、情報を集めた後、1939年にリトアニアのカウナスという場所に日本大使館を開くことになります。大使館といっても、2階建ての小さなものでした。
そこで、大使館職員として、その後の片腕となるグッジェ(ドイツ系リトアニア人)とペシュ(ポーランド人)を雇い入れることになります。
そのころのヨーロッパはドイツのヒットラー総統が率いるドイツ軍が強大な力を誇っており、日本はこのドイツとイタリアと共に日独伊三国同盟を結びます。
一方、ドイツでは多くのユダヤ人が迫害を受け、国外に退避をし、難民となって周りの国に助けを求めていました。
そのような状況の中で、千畝はロシアとドイツの動向を探りながら、情報を日本に送るという役目を果たしていました。
リトアニアもドイツの力が迫ってきて、多くの大使館が閉館する中で、多くのユダヤ人は他国のビザを求めて大使館を回って交渉します。しかし、どの国もドイツの支配下にあり、ビザを発給することができません。
日本大使館としても、ドイツと同盟を結んでいる以上、ユダヤ人へのビザを発給する許可は日本政府からおりるわけはなく、ただ閉館までの時間が刻一刻と迫ってきていました。
そんな中で、千畝は、懇意にしていたオランダ大使館のヤン大使に会います。ヤン大使は、オランダがドイツの支配下にある中で、ユダヤ人にビザを出すことはできないが、遥か遠いカリブ海にあるオランダ領の島キュラソーへの渡航を許可する旨をユダヤ人たちに伝えていました。
千畝は、悩みに悩んだ末、日本政府へのビザ発行の許可申請を行いながら、同時にユダヤ人へのビザを発給するという苦肉の策を思いつきます。これは、日本の外交官としては政府の意向に沿わないことになりますが、許可申請をしてから、1か月後に許可が下りない連絡が来たとしても、その時にはすでにリトアニア大使館は閉館しているので、その通達は届かないと考えたからです。
この杉原千畝の行動の原点は、彼が学生時代を過ごした日ロ協会学校の理念があるようです。
「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」
これが、日ロ協会学校の「自治三訣」と言われる理念です。
千畝は、リトアニア大使館を閉館後も、ホテルでビザの発給を続け、ドイツへ発つ直前までユダヤ人に対してビザの発給を行いました。
その数は、2139通にもなりました。現在と違い、ビザの発給は一人ひとりと面接して、手書きでビザの署名をする形でしたから、この数が大変なものであったことが理解できると思います。
このビザの発給を受けたユダヤ人は、ロシアのシベリア鉄道を経由してウラジオストクまで到達し、そこで、杉原千畝の同級生である根井氏やその部下である大迫氏の努力によって日本への船に乗船し、日本まで到達しています。
戦時下でありながら、日本に到達したユダヤ人がアメリカに渡ることができたことは、とても不思議な出来事のように思えます。
第二次世界大戦終結時、ルーマニア大使館にいた杉原千畝は、ソ連のブカレストの収容所に入れられますが、それほど厳しい取り調べもなく抑留され、1947年4月に日本に戻ってくることとなります。
しかし、外務省にはすでに彼のポストはなく、彼の存在は日本の歴史からも抹殺されてしまうことになります。
千畝はその後生涯の夢であったソ連のモスクワで仕事をすることになります。
その後、1985年イスラエル政府より、杉原千畝の功績に対し、「諸国民の中の正義の人賞」が与えられます。
その1年後の1986年7月31日に杉原千畝は86歳の生涯を終えます。
そして、ようやく2000年に、日本の外務省が公式に彼の功績を顕彰することで、杉原千畝は再び歴史の中に復活を果たすことになります。
今回上映された「杉原千畝」の映画は、日本に先立ちリトアニアでも公開され、多くのリトアニア人に多くの感動を与えました。日本でも映画を見た人は、戦時下にありながら、人間として正しく生きた杉原千畝の人生に対して、深く考えさせられたのではないでしょうか。
目の前にいる困っている人をお世話するという当たり前のことが、当たり前ではなくなっている今の時代、千畝の行動の原点は、とても新鮮なものに見えるのかもしれません。