スティーブ・ジョブズのスピーチはなぜ人々を熱狂させたのか?

スティーブ・ジョブズがこの世を去ってから約4年半が過ぎました。

Appleの製品の生みの親として有名なスティーブ・ジョブズですが、実はAppleコンピュータの会社を設立した頃から、彼の話し方のうまさは誰にも負けないものがありました。

先日2013年に公開された映画「スティーブ・ジョブズ」を見る機会があって、若いころの彼の生き方、会社を大きくしていく頃の生き方、会社から追放された後、再びアップル再生のために戻って来た頃の生き方などが、鮮明に描かれている映像を見て、かくも強烈な生き方をした人であったかと改めて思いました。

彼の情熱は、何もないところから、世界で初めての何かを生み出すことに注がれて続けていたようです。

普通の人であれば、組織の中で自分を長らえるような生き方をしたと思いますが、ジョブズは、そういう生き方を望みませんでしたし、そのような生き方が出来ないほど、世界中の人がワクワクするような製品を作ることに、すべての力を注ぎ、それ以外のことを犠牲にしました。

そういう中で、新製品の発表を行うプレゼンこそが、ジョブズにとっての人生最高の頂点であったと思います。

プレゼンのための準備を周到に行い、聴衆を熱狂させることに命を懸けるような姿は、それまでの常識とは全く違いました。

恐らく、ジョブズは「プレゼンやスピーチ」というものの大切さを、世界中の人々に身を持って教えてくれていたのだと思います。

私たちは、プレゼンやスピーチをするときに、そのストーリーを考えると思います。そのストーリーは、最初からあるものではなく、私たちの頭の中で生み出されるものであるということです。

「どんなストーリーを描くのか?」「それを見て聞く人々の反応はどうだろう?」「このプレゼンやスピーチによって人々の意識をどう変えていくのか?」・・・

そういう自問自答の中でそのイメージを作り上げているのだと思います。

1つの製品を手にすることで、考え方や生き方までも変えられる・・・そういう製品を作ることがジョブズの永遠の夢だったのだろうと思います。

私たちは、ジョブズのようには到底なれないし、話し方も上手じゃないかもしれません。

しかし、自分が話すことで、まわりが変わっていくことをもっと信じて、生きてゆくことが大切なんじゃないかなと思います。

話し方は自己実現への道です。

私たちは人と話すことで生きていることを実感できます。

自分の話し方を見直すことで、人生をより豊かなものにする「鍵」がそこにあると思いませんか?

話し方教室は、そのために存在しています。

ヒューマン話し方教室 スタッフより

宇宙飛行士「山崎直子さん」の話し方がすばらしい

2016年3月4日放送の「アナザースカイ」に宇宙飛行士の山崎直子さんが登場しました。

日本人の女性としては、向井千秋さんに続いて2人目の宇宙飛行士として2010年4月にスペースシャトルで宇宙に行った女性です。

山崎直子さんは、スペースシャトルで宇宙に飛び立ち、その後国際宇宙ステーションとドッキングして、ちょうど国際宇宙ステーションで作業中の野口聡一さんとそこで出会うというすばらしい体験もされたそうです。

山崎さんは、船内活動だけでなく、ロボットアームを操り船外活動もするエンジニアとして活躍され、日本との交信では着物を着て、琴で「さくらさくら」を演奏する光景が有名ですね。

山崎さんの話す言葉を聞いていると、自然に「自分も宇宙に行ってみたい」と思うようになりました。

お話もとても上手で、切れ目なく、正確な表現で、しっかりと話す姿に、山崎さんの宇宙にかけてきた思いがストレートに伝わってきました。

山崎さんが宇宙飛行士として訓練を始めてから任命されるまで9年、それから2年間は宇宙飛行士のサポート業務をして、11年後にやっと本番を迎えられたということのようです。

始めて宇宙を見たときの光景は、私たちが映像で見るレベルとは全く異なり、真っ黒な宇宙と青い地球の姿は、見ていて全く飽きることがないほどすばらしいものだったようです。

11年間の訓練で宇宙に15日間ということで、宇宙の1日のために地球で1年間をすごしてきたような感じだったし、多くの周りの人のサポートを受けながらミッションを成功させたことが何よりもよかったと思えたそうです。

そして、何よりも印象的だったのは、生きて地球に帰ってきたときに、

「紙一枚を持ち上げるのも重いということで、これだけ重力ってすごいんだな」

「地球に戻って風がフワッと吹いてきて、草木の香りが漂ってきて本当にいいなと思ったんです」

「普段見慣れている当たり前の景色が当たり前じゃない。すごくありがたい。」

と考えさせられたそうです。

宇宙飛行士は、宇宙に行って感動するだけでなく、地球に戻ってきてもう1度感動するんだと初めて知りました。

私たちが生きている時代に、外国旅行をするように宇宙旅行ができるような時代になるかもしれませんね。

ヒューマン話し方教室 スタッフより

日本人・杉原千畝の残した行動の原点

IMG_0370

皆さんは、「杉原千畝」の映画をご覧になりましたか?

私は、最初に本を読んで、この映画をぜひとも見たいと思い、映画館に足を運びました。

杉原千畝(すぎはら ちうね)は、1900年に岐阜に生まれました。

旧満州の日ロ協会学校(後のハルピン学院)でロシア語を学び、生涯ロシアに行くことを夢見た人だったようです。

しかし、外務省に入ってからはロシア語ができることで、逆にロシアの動向を探る諜報活動を任され、満州鉄道の利権をロシアと争う交渉においては、ロシアに不利になるような情報を集め、結果的に満州鉄道の利権をロシアから奪い取ることになります。

この一件で彼は、日本では功名を得ますが、逆にロシアからは「ペルソナ・ノン・グラータ(好まざる人)」と呼ばれるようになり、その後のロシア大使館への赴任はかなわぬことになってしまいます。

日本に帰ってきた千畝は、満州鉄道の利権を取る作戦の中で、諜報活動をともに行った外国人の仲間たちを日本の軍隊である関東軍に殺され、そのことでかなり傷ついていたようです。

そんな中で友人の菊池の妹の幸子に出会い、結婚することとなります。

そして結婚後、外交官として赴任したのが、ヨーロッパの小国リトアニアです。

リトアニアはドイツとロシアの間に挟まれ、ロシアへの諜報活動をするには適した場所と考えられたからです。

1937年からフィンランドに赴任し、情報を集めた後、1939年にリトアニアのカウナスという場所に日本大使館を開くことになります。大使館といっても、2階建ての小さなものでした。

そこで、大使館職員として、その後の片腕となるグッジェ(ドイツ系リトアニア人)とペシュ(ポーランド人)を雇い入れることになります。

そのころのヨーロッパはドイツのヒットラー総統が率いるドイツ軍が強大な力を誇っており、日本はこのドイツとイタリアと共に日独伊三国同盟を結びます。

一方、ドイツでは多くのユダヤ人が迫害を受け、国外に退避をし、難民となって周りの国に助けを求めていました。

そのような状況の中で、千畝はロシアとドイツの動向を探りながら、情報を日本に送るという役目を果たしていました。

リトアニアもドイツの力が迫ってきて、多くの大使館が閉館する中で、多くのユダヤ人は他国のビザを求めて大使館を回って交渉します。しかし、どの国もドイツの支配下にあり、ビザを発給することができません。

日本大使館としても、ドイツと同盟を結んでいる以上、ユダヤ人へのビザを発給する許可は日本政府からおりるわけはなく、ただ閉館までの時間が刻一刻と迫ってきていました。

そんな中で、千畝は、懇意にしていたオランダ大使館のヤン大使に会います。ヤン大使は、オランダがドイツの支配下にある中で、ユダヤ人にビザを出すことはできないが、遥か遠いカリブ海にあるオランダ領の島キュラソーへの渡航を許可する旨をユダヤ人たちに伝えていました。

千畝は、悩みに悩んだ末、日本政府へのビザ発行の許可申請を行いながら、同時にユダヤ人へのビザを発給するという苦肉の策を思いつきます。これは、日本の外交官としては政府の意向に沿わないことになりますが、許可申請をしてから、1か月後に許可が下りない連絡が来たとしても、その時にはすでにリトアニア大使館は閉館しているので、その通達は届かないと考えたからです。

この杉原千畝の行動の原点は、彼が学生時代を過ごした日ロ協会学校の理念があるようです。

「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」

これが、日ロ協会学校の「自治三訣」と言われる理念です。

千畝は、リトアニア大使館を閉館後も、ホテルでビザの発給を続け、ドイツへ発つ直前までユダヤ人に対してビザの発給を行いました。

その数は、2139通にもなりました。現在と違い、ビザの発給は一人ひとりと面接して、手書きでビザの署名をする形でしたから、この数が大変なものであったことが理解できると思います。

このビザの発給を受けたユダヤ人は、ロシアのシベリア鉄道を経由してウラジオストクまで到達し、そこで、杉原千畝の同級生である根井氏やその部下である大迫氏の努力によって日本への船に乗船し、日本まで到達しています。

戦時下でありながら、日本に到達したユダヤ人がアメリカに渡ることができたことは、とても不思議な出来事のように思えます。

第二次世界大戦終結時、ルーマニア大使館にいた杉原千畝は、ソ連のブカレストの収容所に入れられますが、それほど厳しい取り調べもなく抑留され、1947年4月に日本に戻ってくることとなります。

しかし、外務省にはすでに彼のポストはなく、彼の存在は日本の歴史からも抹殺されてしまうことになります。

千畝はその後生涯の夢であったソ連のモスクワで仕事をすることになります。

その後、1985年イスラエル政府より、杉原千畝の功績に対し、「諸国民の中の正義の人賞」が与えられます。

その1年後の1986年7月31日に杉原千畝は86歳の生涯を終えます。

そして、ようやく2000年に、日本の外務省が公式に彼の功績を顕彰することで、杉原千畝は再び歴史の中に復活を果たすことになります。

今回上映された「杉原千畝」の映画は、日本に先立ちリトアニアでも公開され、多くのリトアニア人に多くの感動を与えました。日本でも映画を見た人は、戦時下にありながら、人間として正しく生きた杉原千畝の人生に対して、深く考えさせられたのではないでしょうか。

目の前にいる困っている人をお世話するという当たり前のことが、当たり前ではなくなっている今の時代、千畝の行動の原点は、とても新鮮なものに見えるのかもしれません。

365日の紙飛行機の歌詞がすばらしい!

皆さんすでにご存じの朝ドラ「朝が来た」の主題歌の「365日の紙飛行機」ですが、

毎朝聞くたびに、「今日も朝が来たな~」と思う曲です。

 

AKB48グループに興味のなかった方も、この曲で興味を持ったのではないでしょうか?

センターで歌うのはNMB48の山本彩(やまもと さやか)さんです。

舞台セットの中で歌うAKBグループもなかなかいいですね。

この曲の歌詞のなんてったっていいところは「全部」です。
でも特に私が好きな部分を赤字にしてみました。
皆さんはどうですか?

「365日の紙飛行機」

作詞:秋元康
作曲:角野寿和・青葉紘季
編曲:清水哲平

朝の空を見上げて
今日という一日が
笑顔でいられるように
そっとお願いした

時には雨も降って
涙も溢れるけど
思い通りにならない日は
明日 頑張ろう

ずっと見てる夢は
私がもう一人いて
やりたいこと 好きなように
自由にできる夢

人生は紙飛行機
願い乗せて飛んで行くよ
風の中を力の限り
ただ進むだけ
その距離を競うより
どう飛んだか どこを飛んだのか
それが 一番 大切なんだ
さあ 心のままに
365日

星はいくつ見えるか
何も見えない夜か
元気が出ない そんな時は
誰かと話そう

人は思うよりも
一人ぼっちじゃないんだ
すぐそばのやさしさに
気づかずにいるだけ

人生は紙飛行機
愛を乗せて飛んでいるよ
自信持って広げる羽根を
みんなが見上げる
折り方を知らなくても
いつのまにか飛ばせるようになる
それが希望 推進力だ
ああ 楽しくやろう
365日

飛んで行け!
飛んでみよう!
飛んで行け!
飛んでみよう!
飛んで行け!
とんでみよう!

 

私も知らなかったのですが、センターで歌う山本彩さんは、
とてもいい歌を歌っていたんです。

この歌もかなりいいでしょう!

それでは、今年も朝から頑張っていきましょう!

ヒューマン話し方教室 スタッフより

2015年は「話すこと」について考えた年でした

2015年はいろんなことがあった年でした。

政治・経済・文化・教育などいろんな分野で大きな節目の年だったような気がします。

私自身にとっては、「話す」ということをじっくりと考えた年だったように思います。

話し方教室に通われた生徒さんにとっても、これまで考えたことがないくらいに「話すということ」を体験したことと思います。

誰でも「話す」ということは簡単と考えがちですが、きちんと伝わるように話すということや、気持ちが伝わるように話すということになると誰でもができることではないようです。

先天的に話す事が出来ない人たちもいます。その人たちは手話を学び会話をしています。

国ごとに言葉が異なるように、手話も国ごとに違いがあるそうです。

異なる言語で話していても、お互いが心を通わすことができれば気持ちは伝わります。

同じ日本語を話していても、お互いの心が違うところにあれば、違った意味で伝わることもあります。

今年は、戦後70年の節目の年でした。

戦争の体験を伝えられる人は、年々少なくなってきて、伝えようとする人たちの言葉を正しく受け取ることができなくなってきているようにも感じます。

人は自分が体験したことを話そうとしますが、他の人は同じ体験をしているわけではないので、深く伝わらないということがままあります。

1つのグループである問題を考え抜いて結論を導き出したとしても、それに関わらなかった人たちに結論だけを伝えても、真意は伝わらないことが多いのです。

インターネットは、世界中の多くの事件や人々のことを知ることができますが、それは結果的なことであって、その結果が生まれてきた過程は知ることができませんし、それぞれの国の歴史や考え方でその解釈は別々なものになってしまうことも多々あります。

「話す」ということは、私達どうしが「共通の意識」を共有することができる唯一の手段です。

メールやFacebookやLineなどでは決して伝わらない何かを伝えることができる手段です。

しかし、人と人とが面と向かって話したとしても、お互いの心が閉じてしまっていれば何も伝わりません。

「心」は本体で、「話す」は手段なのですが、それが一体にならないと「伝える」ということはうまくできないもののようです。

このような根源的なことをずっと考えてきた1年だったように思います。

来年は、2016年です。

また新しい年が始まります。

新しい年には希望があり、そしてチャレンジできる勇気をもらえます。

それでは、みなさん、よいお年を!

ヒューマン話し方教室 スタッフより