チャレンジすることで、人間の本質が作られる

何もしないでいると、あっという間に歳だけとってしまいます。

大切なのは、何歳になってもチャレンジすることです。

 

いろんな可能性があっても、1つのことをやり続けられるかどうかが、チャレンジで一番大切なことです。

絶えず人と比べたり、自分の才能を卑下したり、まわりの関係ない知識だけをため込んだりする時間は、本質的な時間を無駄に消費しているだけです。

 

人と違うからこそ、そこに価値があります。

人と同じだったら、全く価値はありません。

 

他の誰かと一緒じゃないとできないとか、

皆で楽しくしないとできないとか

こっそり秘密にしないとできないとか

 

そういうことは、チャレンジではないと思ってください。

 

チャレンジとは「自分だけの決心」なのです。人に左右されるものではありません。

そういう強い心を持って、強くタフに生きる自分になるという決心なのです。

 

「上手に生きる」のではなく、「たくましく生きる」ことです。

「人に助けられて生きる」のではなく、「人のためになるように生きる」ことです。

 

自分のチャレンジを、もっともっと人に話していくことで、そのチャレンジが本物になります。

そのうちに、そのチャレンジによって自分が生かされ、人から認められていることに気づくようになると思います。

 

最終的には、それが、あなた自身の本質になります。

「平和」の意味が伝わらなくなった時代に 沖縄パート2

今回の沖縄パート2では、もうひとつの沖縄についてのレポートです。

沖縄本島の南部に行くと、有名な「ひめゆりの塔」という場所があります。

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔の歴史はご存じの方も多いと思いますが、第二次世界大戦の末期の1945年の3月から終戦までに沖縄師範学校の女子学生たちの約半数が、激戦の中で亡くなっていったとても悲しい歴史です。

沖縄にはガマと呼ばれる天然の壕が沢山ありました。沖縄の地質はサンゴ礁を元とした石灰岩からできており、雨により浸食されることで、多くの洞窟が生まれました。日本の軍隊はこの天然の地下壕を防空壕として使うことでアメリカ軍と戦っていました。女子学生たちは、この防空壕の中で働く看護要員として当初派遣されました。

おそらく、この「ひめゆりの塔」を訪れて、涙を流さない人はいないと思います。戦争の末期の沖縄戦では多くの男子学生、女子学生が戦争に動員される中で、多くの若い命が亡くなっています。

ひめゆりの塔だけではなく、この周辺には多くの「○○の塔」という場所があり、慰霊の場所となっています。

沖縄戦で亡くなったすべての人々の総数は20万人を超えています。そのうちの1割はアメリカ兵です。また兵士だけでなく、多くの民間人が亡くなっています。また、沖縄出身の人だけではなく、日本のすべての都道府県の人が沖縄で亡くなっています。さらに、1910年に行われた韓国併合により、日本の本土だけではなく、沖縄にも多くの韓国人労働者が来ており、この人たちも多く亡くなっています。

このような戦没者を慰霊するために、ひめゆりの塔の近くの海岸の近くに「平和祈念公園」があります。この平和祈念公園には、沖縄戦で亡くなられたすべて人々の名前が彫られた「平和の礎」があります。また、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」と沖縄戦の本当の歴史を伝えるための「平和祈念資料館」があります。

平和の丘
平和の丘

平和の礎(平和の火)
平和の礎(平和の火)

平和祈念像
平和祈念像

平和祈念資料館
平和祈念資料館

平和祈念資料館は、とても立派な建物で、そのデザインも沖縄らしく、沖縄の歴史を感じさせるものがあります。この建物の塔の上に上がると平和祈念公園全体が一望できて、すばらしい景色を見ることが出来ます。

平和祈念資料館

この資料館の中には、沖縄の歴史と戦時中の歴史、沖縄戦の歴史が忠実に記録されており、多くのことを学ぶことができます。

その中の資料の一つに以下のようなものもあります。

慰安所 南西諸島への移民

左は、戦時中に沖縄に設置された慰安所のマップです。右は、日本から南西諸島に移住した日本人と沖縄出身者の割合です。1900年の初頭から政府は、第1次世界大戦以降に獲得した南西諸島への移住を促進しており、多くの沖縄の人々は移住しました。南西諸島の代表的な島は、サイパン、テニアン、ロタ、パラオなどの島々です。これらの島々は戦争末期にアメリカ軍の攻撃を受け、移住した多くの人々が亡くなっています。

日本は、1945年8月15日に終戦を迎え、アメリカ軍(GHQ)により、1945年から1952年まで約7年間占領され、GHQの基で、多くの改革が行われました。1946年11月3日には現在の日本国憲法が公布されました。

一方、沖縄はアメリカの領土なります。日本の占領期間が7年であったのに対し、沖縄は戦後27年間のアメリカの統治時代を経て、1972年5月に日本に返還されます。

日本への返還後も、日本全体のアメリカ軍の基地の約74%が沖縄に存在し、沖縄本島の面積の約18%が基地となっています。

 

沖縄は元々は、琉球王国(1429年から1879年の450年間続いた王国)として、現在の奄美大島やまわりの島々、沖縄諸島、さらにその西に位置する宮古列島・八重山列島までを統治していました。王国は日本、中国、東南アジアにまたがって貿易を行っていた海洋国家でした。

琉球の言葉のなりたちは日本語と近い言葉ですが、多くの独自の言葉を持ち、文化的には日本と中国の文化の影響を受けながら、独自の文化を築いていました。琉球王国の王は、朝鮮の王朝と同じく、中国の皇帝が代わったときには、中国の使節団が沖縄まで派遣され、中国の皇帝から琉球の王として任命されるというしきたりでした。

1872年、沖縄は明治政府から琉球藩として管轄されるようになったが、明治政府に抵抗したため1879年に明治政府から武力で制圧され、首里城が明け渡され、琉球藩から沖縄県になりました。

今回、沖縄のこのような歴史を思うと、沖縄と朝鮮半島の歴史は意外と重なるところが多いと感じざるを得ませんでした。

朝鮮半島は、1392年から1910年まで約500年近く、李氏朝鮮という王朝により統治されていました。この李氏朝鮮は、日清戦争後の1897年に国号を大韓帝国として日本の支配下に下ります。その後1910年に韓国併合が実施されて、完全な日本の植民地となります。

そして、1945年の終戦を迎えますが、東西の冷戦の中で1950年~1953年に朝鮮戦争が起こり、北の朝鮮民主主義人民共和国と南の大韓民国に分断された国家となり、現在に至ります。

多くの戦争の歴史の中で、多くの悲劇が起こり、戦争が終わった後にも多くの矛盾を抱えているのが東アジアの中国、朝鮮半島、日本だと思います。

このような歴史の中で、「平和」とは何かということを深く考えることが、「平和の第一歩」だと感じます。

言葉では語れないが、言葉にしないと伝わらない沖縄パート1

先日、生まれて初めて沖縄に行ってきました。

これまで、テレビやネットで沖縄のことはなんとなく知っているような気になっていたのです。

でも、「やっぱりよくわからない」ということに気がついて、それで現地に行ってみようと考えました。

私たちは、テレビやネットだけの情報で、「ああだ、こうだ」と考えて、勝手に解釈していることって多いと思うのです。

インターネットが発達して、家にいながら世界中の情報が入ると考えているのは、単なる情報だけであって、やっぱりその場にいかなければ感じ取れない「何か」があるように思います。

ということで、沖縄の空港から出て、最初に感じたのが、

「暑くて湿度が高い」ということです。

でも、なぜか東京の暑さと違って、「これは自然の暑さだ」と思いました。

そして、それほど不快さを感じないのは、「風があるからだ」ということがわかりました。

さらに、夜になっても気温があまり下がらないということで、冷房を使うことが日常になっているようでした。

翌日、いわゆる観光地の「美ら海(ちゅらうみ)水族館」に行ってみました。その昔、1975年に「沖縄海洋博覧会」が行われた会場と同じ場所にあります。

そこで有名なのが、巨大水槽の中のこれ↓

美ら海水族館

ジンベイザメが2頭ほど泳いでました。

ジンベイザメは、肉食ではなくてプランクトンが主食のサメなので、とてもおとなしいそうです。

それと不気味だったのが、これ↓

巨大えびちゃん

この巨大エビは、体長1.5メートルほどあって、ヒゲを含めると3メートルくらいあります。

近くで見ると、エイリアンみたいでした。

さらに、別の水族館には人魚のモデルと言われている「マナティー」がいました。

アメリカマナティー

餌をあげると、両方の手をつかって器用に食べている姿が印象的でした。

そして、外に出てみると、こんな海の風景が

海の風景

この雲ってすごい形しているでしょう。この雲だけをアップしてみますね。

人面雲

右の端が人の顔になっていて、手を広げて飛んでいるようですよね。

こんな珍しい形の雲があるなんて、やっぱり沖縄だなあと思いました。

最後に、きれいな海の写真を一つ。

綺麗な砂の海岸

ちなみに、風景の中の人物は私ではありません・・・。

この美ら海水族館は、沖縄でも最大の観光スポットとなっていて、この周りには、多くのリゾートホテルがあります。

そして、驚かされたのは、ここに来ている観光客のほとんどが中国からの観光客だということです。

飛び交っている言葉のほとんどが中国語で、日本語がたまに聞こえるという状況です。

沖縄の観光地のどこに行っても、日本人よりも中国人の方が多いという状況で、現地の案内の人やお土産屋の店員さんも、中国語でペラペラと会話しているという状況です。

いろいろと政治の問題はありますが、中国からの人々にとってはそんなことは関係ないように見えました。

ちなみに、沖縄での移動はすべて車しかないので、中国からの観光客もレンタカーを借りて普通に運転して沖縄をめぐっているようでした。

沖縄の看板はすべて、日本語、英語、中国語、韓国語の4か国語になっています。

次回は、パート2ということで、別の角度から沖縄の今をお伝えします。

「嫌われる勇気」~アドラー心理学から学べるもの

嫌われる勇気

「嫌われる勇気」というドラマを見ていますか?

このドラマには、象徴的な言葉が多くでてくるので、それが私たちの日常の生き方を考える上で一つのヒントになるかもしれません。

このドラマを見る前に、NHKの「100分DE名著」という番組でアドラーが取り上げられて、書店で番組の本が売られており、購入して読む機会がありました。

その本の中で初めてアドラーの写真を見た時は、ちょっと威張った感じのおじさんだなあというイメージを持ちました。(笑)

でも、NHKの番組本を読んでみて、アドラーは1870-1937という時代に生きた心理学者ですが、その提唱している心理学の言葉は現代人に対して、まさにピッタリくる言葉だと感じました。

 

アドラー心理学の本質は、「人はどうすれば幸福になれるのか」という点です。

ドラマの中で、よく見られるのは「自己と他者」をきちんと区別しているという点です。

私たちは、一人で生きているようで、実際には家族や会社や社会という中で、多くの人と関わって生きています。

他人のためにと思って行動していることは、実は自分のために行動していることになっています。

人間関係でのトラブルは、「自己と他者」を区別しないで、自己中心的な感情で行動してしまうことで生じてくるのかもしれません。

私たちは、生まれながらに「誰かに認めてほしい」という欲求を持っていますが、それが強くなりすぎると、他者に対して依存してしまい、他者のための人生を生きることで、自己が喪失されてしまう危険性があります。

このため、アドラーは「誰かに認めてほしい」という欲求(承認欲求)からの解放が必要であると提唱しています。

このためには、人と人との間にある問題が、「いったい誰の課題なのか」という点を考え、自分の課題と他者の課題をきちんと分けて考えることで、お互いに対等な関係を築くことが大切だと説いています。

この問題は、社会や会社の中だけではなく、家族の中でも必要ですし、親子でも必要であると言っています。

誰とでも対等な関係を築くことは、すでに依存状態にある私たちにとっては、かなり無理な部分もありますが、それをあえて行動として実践して、対人関係を変えてゆくことが、「嫌われる勇気」というテーマにつながってくるのだと思います。

実は、対等な関係を作ることはとても重要です。

アドラーの逸話の中にこのようなお話があります。

かなり重度の精神患者と話すときは、普通の人であれば、おそらく相手が何を考えているのかがわからずに、右往左往すると思います。しかし、アドラーは重度の精神患者であってもとても楽しく会話ができ、さらに相手の精神患者もとても楽しそうに話しているという状況が生まれていたそうです。

これは、アドラーがどんな人であっても、きちんとした対人関係を築ける方法を知っていたからだと思われます。

対等な関係が築けることで、お互い信頼することができ、よりよい関係に発展することができます。

ここで勘違いしてほしくないのは、「対等な関係」という意味です。自分と他人が異なる人間である以上、何もかもが対等ということはありません。それぞれの役割の中で対等であるという点が大切だと思います。

さらに、私たちの中に本質的にある「承認欲求」を、レベルを上げて「社会貢献」というレベルにまで昇華することで、「自分は誰かの役に立っている」という満足感に変えることで、私たちは幸福を感じるようになるとアドラーは言っています。

このドラマを見ながら、自分の今の状況を心理学的に見つめ、具体的な行動に移していければ、アドラー心理学の実践になります。

でも、たぶんドラマを見て面白いだけで終わってしまうのが一般人なんですよね。(笑)

 

ヒューマン話し方教室 スタッフ

映画「この世界の片隅に」を見てほしい

今年に入って注目の映画ということでまず最初に見なければと思ったのが、「この世界の片隅に」というアニメ映画です。

この世界の片隅に

アニメ映画ですが、実話に近いストーリーを描いています。

原作は、こうの史代さんが描いたマンガ「この世界の片隅に」なのですが、映画は片渕須直監督により、さらに細かな時代考証が行われ、映画の準備だけで4年が費やされたという渾身の力作となっています。

クラウドファンディングングという新しい資金集めの方法で、この映画は作られました。

つまり、一般の人からの寄付によって作られた映画です。

そのため、スポンサーの縛りや政治的な縛りがなく、日本の戦時中の歴史をアニメとして描くという点において本当に正しい表現ができている映画だと感じました。

映画のエンドロールでは、寄付をした人や会社の名前が出てきます。

日本の戦争の時代を直接知らない私達の世代は、学校教育をはじめとして、マスコミや一部の政治的な団体による歴史観、特に過去の戦争にかかわる歴史観が多様化しすぎて、本当の生身の人間が感じた昭和初期の時代というものを知る機会がとても少なかったように思います。

また、昨今ではお隣の韓国や中国からの一方的で政治的な歴史観に対して、私たち日本人として何らかの歴史観を個人個人が持つことが求められているように思います。

このような中で、この映画が持つ意味はとても深いと言えます。

昭和の初期といえば、今のようにインターネットもなければ、テレビもないという時代ですから、情報は新聞やラジオから得るしか手段はありませんし、なによりも自分の住む町から遠くにいくことがとても不安に感じる時代だったのではないかと思います。

映画を見ると、たとえ戦時中という厳しい時代であっても、楽しんだり、笑ったり、悲しんだり、苦しんだりしながら、必死に生きてゆく人々の姿は、現代の私たちとなんら変わることはなく、昔の時代から今の時代に受け継がれる一本の糸のようなものが感じられるように思います。

一つの時代を生きた、一人の女性の生き方を通して、私たちが知らなかった本当の歴史の姿(人々の生きた歴史)が見えてきます。

この映画を見た後に感じる「なんとも言えない感覚」は、言葉では表せない感覚だと思います。

それは、日本人だけが感じるものなのか、それとも外国の人々も感じる感覚なのかはわかりません。

それが何であるのかを自分で見出していくことが、時空を超えた本当の歴史を知ることなのかもしれません。

どこの映画館でも見れるわけではないのですが、多くの方に見ていただきたい映画だと思います。

 

ヒューマン話し方教室 スタッフより